幻の梨「当麻梨」について

夏休みも終盤に差し掛かり、朝夕に若干の涼しさを感じられる季節になってきました。今年の夏は特に暑いので、この涼しさに癒されますね。

この位の時期にさがみはらで旬を迎えるのが「梨」です。今日は、さがみはらの「当麻梨」の歴史をご紹介したいと思います。

はじまり

1945年、第二次世界大戦が終結しました。終戦後の飢餓状態は、農業者の血のにじむような努力により、数年のうちに克服されました。1950年の朝鮮戦争勃発による特需景気により、日本経済は戦後の不況から脱することができたものの、この特需は農業者には無縁のものでした。このとき、農業者は「明日への危機感を抱いていた」といいます。

このような中、農業者の間では、従来の「米・麦・養蚕」という形態に加え、「果樹」を導入する「複合経営」が検討されるようになりました。

当麻耕地は、北東に丘を背にしており、温暖な気候と3.4メートルに及ぶ耕土の深さを有し、果樹地帯としての諸条件を完備していました。

1953年春、農林省技術研修所と県農業試験所に当麻耕地の土壌検定を依頼し、その結果、「梨栽培に最適」と評されました。この時検定した農林省技術研修所と県農業試験所の職員曰く「絶好地であり、数年ならずして一帯は真っ白な梨の“花がすみ”となるだろう。また、それを期待して已まない。」とのことでした。

九人の侍たちの挑戦

これを受け、同年冬、当麻地区で九人の農家が梨を新植しました。この九人は、映画「七人の侍」にちなみ、仲間内では「九人の侍」と呼ばれました。この年、当麻果実組合が結成されました。同組合では全国大会などに参加し、技術向上に取組みました。

また、当時、県内では、東の「多摩川梨」、西の「足柄梨」が名を揚げていました。1956年、「相模川流域の新興産地」で結成している相模川果樹研究会の会議で、梨の商品名の検討がなされ、「相模梨」と称することと決しました。

「当麻梨」の誕生

相模原青果市場、東京築地市場などに出荷するも、零細な後進地の故に好評を得ることはできませんでした。梨集荷場を兼ねた共同選果場を設置するも、零細産地の無力さを克服するには至りませんでした。

時は高度経済成長期。空前のレジャーブームによりマイカーが驚異的に普及する中で、沿道直売に活路を見出します。

1964年、当時の国道129号(現在の県道508号部分)での沿道直売を試行し、翌年から25軒の農業者で本格実施しました。当時、沿道での特産品の直売は珍しく、「極めて幼稚な方法」とも揶揄されましたが、これが大方の予想を覆す好評を得ることとなります。

評判が口伝で広がり、多くの買い物客でにぎわいました。「おいしかったからまた買いに来た」と、リピート客が多かったとのこと。当時は梨の旬の時期でも日が暮れると寒くなったため、火鉢を囲みながら毎日22時まで販売を行っていたそうです。こうした様子から、夜は「当麻の梨売り銀座」と呼ばれるようになりました。これが、全国における沿道直売の走りとなります。当麻地区一帯の梨が「当麻梨」として名声を高めたのは、正にこの頃のことです。

当時の沿道直売の様子

隆盛とその後

1966年、前述の功績が市農政に貢献したと認められ、当麻果実組合は相模原市から表彰されることとなりました。1967年には、同組合員数は、最大の34名となり、沿道は両側とも直売所が連なりました。また、毎年増加する収穫量の全てを「直売方式」に頼ることの困難を予見して、「観光もぎとり」の併用化を進めました。

ところがこの後、社会情勢の変転により、組合員数は減少の一途をたどることとなります。1958年に首都圏整備法による市街地開発区域第1号の指定を受けていた相模原市は、有数の人口急増を招き都市化が急速に進むとともに、米作減反政策の定着化や農業収入の低迷によって生ずる後継者問題に直面したためです。これは正に、首都圏における農業の縮図と言えます。

当麻地区再開発と「当麻梨」

1996年には、当麻地区が特定保留区域に指定されました。とりわけ、「当麻梨」の畑を多く含むエリアにおいては、さがみ縦貫道路の相模原愛川インターチェンジと国道129号の交通結節点周辺という立地特性を生かした産業拠点を形成するため、土地区画整理事業により計画的な市街地整備を図るとともに、地区計画等により新たな産業拠点として相応しい操業環境の保全を図ることとされ、産業系土地利用の方針が定められ、用地交渉・買収が進みました。その結果、「当麻梨」の畑は次々と姿を消すこととなりました。

「当麻梨」の現在

かかる推移の中で、本稿執筆時点(2022年)における「当麻梨」の販売農家の数は2軒のみとなりましたが、今も「当麻梨」を求めて当麻地区を訪れるお客様がいらっしゃいます。生産者の一人である 春山梨園の園主である春山さんは、「スーパーで買ったものより断然おいしい。」と言うお客様や、「来年もまた買いに来るから、元気でやっていてね。」と言う常連のお客様の声が、今のやり甲斐になっていると言います。

「今年もおいしい梨ができた」と春山さん

生産者の確かな技術に裏付けられ、そのおいしさから根強いファンの多い「当麻梨」。本稿をご覧の皆様にも、ぜひともご賞味いただきたいと存じます。

出典:当麻果実組合三十周年記念誌「30年のあゆみ」(1983年8月)

協力:春山梨園 園主 春山 秀男 氏